肥前吉田焼とは
ABOUT Hizen Yoshida yaki
かつて佐賀・長崎にまたがる地域は「肥前」と呼ばれ、現在も多くの窯元が残る陶磁器の産地です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、多くの朝鮮陶工を連れ帰った佐賀県藩主の鍋島直茂は、慶長3年(1598年)、そのうちのひとりを吉田へ送り、陶磁器を作らせました。享和年間(1801~1804年)に入るとさらに事業は拡大し、食器などの生活雑器を中心に肥前吉田焼は繁栄します。
嬉野で最初の磁器は吉田で作られました。一般的には有田からは40年ほど遅れると言われていますが、蓮池藩の窯場ということもあって独自の発展を歩んでいきます。明治時代には旧士族を中心とした陶器製造会社「精成社」が設立され、中国や朝鮮へ販路を拡大していきました。
当時、肥前にはいくつもの藩があり、鍋島藩で作られたやきものは有田焼として分類されてきた経緯があります。有田の赤絵町を中心としたエリアを内山、その周りを外山、さらに周りを大外山と呼び、この大外山に位置する肥前吉田焼もまた有田焼と同様400年の歴史を誇るやきものです。
飯碗・湯のみ・そば猪口・急須・土瓶が肥前吉田焼の代表的なラインナップ。
新しい造形・デザインにも挑戦しています。
嬉野吉田地区とは
ABOUT Yoshida Ureshino
長崎県との県境に位置する佐賀県嬉野市は、美しい自然と豊かな資源に恵まれたエリアです。
嬉野川の清流沿いにある嬉野町は、日本三大美肌の湯として知られる「嬉野温泉」を有する九州を代表する温泉地のひとつ。江戸時代には宿場町としても栄え、現在も観光地として人気を集めています。
特産品である「嬉野茶」は、永享12年(1440年)、平戸に渡ってきた中国・明の陶工が、不動山皿屋谷に移住し、陶器を焼くかたわら、自家用に栽培したのが始まりといわれている歴史あるお茶です。
吉田地区では江戸時代より鍋島藩主の奨励で磁器産業が栄え、400年以上にわたり「肥前吉田焼」を守り続けています。戦後は、嬉野茶を特産とする地域の特性を生かした茶器を製造する窯元も多く、昭和の食卓の象徴のような水玉模様の急須や湯のみは、肥前吉田焼の代表的な商品のひとつとなっています。